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南洋群島占領―WW1劈頭の日本海軍の行動

以下は、2014年5月に発行された『東大戦史研会報第57号(特集:第一次世界大戦)』に寄稿した文章です。ブログに掲載するにあたり一部改めています。

はじめに

 南洋群島南洋諸島)とは、1914年に日本が占領し、1919年から1947年まで国連委任統治領として日本が支配したマーシャル諸島カロリン諸島パラオ北マリアナ諸島を含む領域のことである。

 「南洋群島」を含む島嶼群は16世紀以来スペイン領東インドとしてスペイン植民地帝国の勢力下に置かれていた。ドイツは1884年以降宰相ビスマルクの政策下に植民地を拡大、ニューギニアソロモン諸島を中心にドイツ領ニューギニアを形成していたが、米西戦争後の1899年にマリアナカロリン諸島を購入、1906年にはマーシャル諸島を獲得しこの地域に一定の勢力を得た。ドイツは1898年に獲得した膠州湾と合わせ、東洋における権益保持のための有力な基地としてドイツ領ニューギニアを利用した。特にドイツ東洋艦隊の存在は日露戦争後の世界に於いて英国への側面圧力として機能した。

 第一次世界大戦においては赤道以北を日本、赤道以南をオーストラリアが占領、日本の占領部分は日本の委任統治下に南洋庁がおかれ事実上の植民地として経営された。

 本稿では第一次世界大戦劈頭における大日本帝国海軍によるドイツ領ニューギニア(南洋群島)の占領の経過について、戦時日誌などの史料を用いつつ述べる。以下、British Royal NavyのChina Stationを「英国支那艦隊」と、南洋の島々に古くから住む人々を「土人」と呼称する部分があるが、これは日本海軍史料の表記に従うものであり、何ら特別な意図を含むものではない。また、南洋群島の呼称については、現在では「南洋諸島」が主流であるが、同時代的には「南洋群島」とされることが多かったため、以下そのように表記する。

1.日本の参戦と戦域制限

 1914年7月末、欧州情勢は緊迫の度を増し、英独開戦は避けられない情勢となっていた。英国側にとっての大きな懸案の一つがドイツ東洋艦隊の存在だった。万一威海衛や香港がドイツに攻撃されれば、中国権益が脅かされかねなかった。そのために必要となったのが日本海軍の協力だった。

 日英同盟は1905年に攻守同盟へ改訂されていたが、その適用範囲はインドを中心とするアジアに限定されており、日本に参戦義務は生じていなかった。イギリスとしても当初は日本の力を借りるつもりはなく、8月1日に今回の事態が日英同盟の対象外であることを通知している。

 しかしドイツへ宣戦布告される4日になると、英外務省は万一の場合の援助を要請した。日本は4日に当面の中立を宣言していたが、これを受けて政府内で本格的に参戦への検討が始まった。政府内で最も強硬に参戦を推進したのは加藤高明外相であり、加藤はこれを機に中国問題の一挙解決を模索していた。

 日本が参戦する場合、問題となるのが南洋群島と膠州湾のドイツ植民地の存在だった。特に南洋群島が日本に奪取される事態が起きれば、アメリカにとってはフィリピンとの連絡路が日本に握られ、オーストラリア・ニュージーランドにとっては喉元に刃がつきつけられるも同然の状況となり、英国はこれらアングロサクソン諸国への配慮を迫られた。特にアメリカは移民問題や独系移民の宣伝により反日感情が高まりつつあり、事によっては英国に不利な状況を招きかねなかった。

 この間、海軍では2日に欧州情勢の緊迫を理由として八代六郎海相から第二艦隊に佐世保での待機が命ぜられ、3日には軍令部で青島攻略作戦の立案が開始され、7日には第一艦隊の佐世保回航が命ぜられた。しかし海軍軍令部の一部には参戦に消極的な意見も存在した。将来予想される対米決戦のための現有勢力温存および八八艦隊の整備を重視する考えが強かったためである。無論海軍として南洋群島は太平洋への根拠地として非常に魅力的であったことは変わりない。

 だが4日に独軽巡洋艦エムデンが対馬沖でロシア船を臨検したことが伝えられると*1、ドイツ艦隊による通商破壊が大きな懸念事項として浮上した。イギリス支那艦隊は青島の東洋艦隊の捕捉に失敗し*2、グリーン駐日大使から加藤外相へ、ドイツ仮装巡洋艦撃滅の正式な要請が伝えられた。加藤は攻撃対象を仮装巡洋艦に限らず全面的武力行使を行いたい旨を述べた。その夜、大隈首相邸における会議で加藤らの強力な主張により、同盟の「情誼」を理由とする日本の参戦が決定された。翌日には天皇への上奏と元老の了解が得られ、これは政府の既定方針となった。

 一時は日本参戦を容認したイギリスであったが、しかしアングロサクソン諸国や中国の反発は避けられるものではなかった。4日にはオーストラリア・ニュージーランド筋から日本参戦への危惧が伝えられており、5日には駐米中国大使が米国務次官補ランシングに懸念の意を伝え、ウィルソンの了解のもと英グレイ外相に非公式な中国・太平洋地域の現状維持を図る打診が行われた。他にも駐英米大使や米海軍筋、さらにはチャーチル海相から遺憾の意が伝えられた*3ことから、11日、加藤外相に出撃要請撤回が伝えられるに至った。しかし加藤は既に天皇の親裁で参戦が決定していることなどを理由にこれを事実上拒否した。

 日本側の参戦意思が揺るがないとみたグレイ外相は、11日に参戦区域を太平洋方面に拡大しないことを条件として参戦を認める意向を示した。13日には、日本海軍の作戦行動が参戦区域制限を守った上ならば行動に限界を設けないとも伝えている。日本側は戦域制限を宣戦布告に含めないことを主張したため、イギリス側は日本が他の手段により関係諸国に領土的野心の無いことを周知させる条件で参戦に同意した。日本はこれを受け、対独最後通牒に膠州湾を中国に還付するために9月15日までに日本に交付せよとの一文を盛り込むとともに、各国大使への通告を以て領土的野心が存在しないことを宣伝した。イギリス側も妥協の意思を示し、対独最後通牒は8月15日に発された。最後通牒の回答期限と明示された23日を期して日本は第一次世界大戦に参戦した。

 政府は英国の意向を受け、膠州湾攻略を主とする方針に固まりつつあったが、海軍上層部は参戦と決まった以上、兼ねてからの目標だった南洋群島を攻略する機会を伺っていた。8月13日に駐英海軍武官がチャーチル海相から兵力が不足している北米沿岸域の警備に装甲巡洋艦出雲*4の派遣を要請されたこと、さらに18日に支那隊司令長官ジェラム中将からシンガポール方面の警備が要請されたことを捉え、海軍は戦域制限との矛盾であるとして戦域制限が事実上廃止されたものと判断した。21日付で軍令部はジェラム中将の要請を請ける形で中国の第三艦隊を香港・上海間の警備に、さらに伊吹・筑摩を香港へ回航した。24日には出雲へも北米警備を命令*5、さらに第三戦隊へミッドウェイ海域の警備を命令した*6。この第三戦隊が後に南遣支隊として南洋群島占領に当たることになる。

2.南洋群島警備命令―大正三年八・九月 南遣支隊の行動

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図1:南洋群島要図

 1914(大正三)年8月における第三戦隊は以下の四隻よりなっていた。

類別 艦名 就役年月 常備排水量 最大速力
巡洋戦艦 金剛(旗艦) 1913年8月16日 27,500t 27.5kt
巡洋戦艦 鞍馬 1911年2月28日 14,636t 21kt
巡洋戦艦 筑波 1907年1月14日 13,750t 20.5kt
巡洋戦艦 比叡 1914年8月4日 27,500t 27.5kt

 8月24日の命令では、金剛は8月26日に横須賀を発ち、9月17日までミッドウェイ附近を遊弋。筑波は8月29日に横須賀を発ち、金剛と横須賀間の通信を保持。比叡は横須賀を発ち佐世保で入渠の後横須賀に戻り待機。鞍馬は横須賀を発ち津軽海峡方面の航路保安を図るものとされた。

 金剛は予定通り26日に横須賀を発、27日には佐世保から鞍馬が横須賀に入港、比叡も佐世保に着。筑波は29日に横須賀を発つも悪天候のため館山に一夜仮泊、翌日には通信保持任務に就いた。鞍馬は30日に横須賀発、31日には哨戒任務に就いた。

2-1.南遣支隊の編成

 状況が変化したのは9月2日のことだった。ホノルル領事から、独巡洋艦ニュルンベルクが現地時間9月1日早朝ホノルルで載炭した旨の報告が入ったのである*7。海軍はニュルンベルクの他シャルンホルストグナイゼナウが8月6日にポナペ島を出港したという情報を31日に給炭船から得ており*8、独東洋艦隊(シュペー艦隊)が青島ではなく南洋群島を根拠としているものと判断した。金剛はミッドウェイ近海に達し横須賀へ向け反転していたが、同日ミッドウェイへ引き返しニュルンベルクの捕捉に努めた。

 9月3日、軍令部は以下の命令を発した。

「鞍馬, 筑波,浅間及第十六駆逐隊ヲ以テ南遣支隊編成セラレ給炭船トシテ遠江丸及南海丸ヲ附屬セシメラル」*9

 山屋他人中将*10指揮下に編成される南遣支隊は横須賀を通信拠点、父島二見港を給炭地とし9月10日から20日間マリアナ・東西カロリン群島を巡航索敵するものとされた*11。東洋艦隊の存在は南洋群島への軍艦派出の理由にはなっても、占領するには当時の情勢上口実が足りなかったようである。9月13日に軍令部は軍事施設の破壊および邦人保護のための上陸は構わないが、その後は速やかに撤退すべきであると命令している。

 金剛は引き続きミッドウェイ附近で無線封止の上任務継続、筑波は4日、鞍馬は6日に引返し8日に横須賀に到着した。11日には香取が支隊と通信のため派遣されることが命令された。

 南遣支隊に加わる浅間および第十六駆逐隊(山風、海風)の諸元は以下のとおり。

類別 艦名 就役年月 常備排水量 最大速力
装甲巡洋艦 浅間 1899年3月18日 9,700t 21.5kt
駆逐艦 海風 1911年9月28日 1,150t 33kt
駆逐艦 山風 1911年10月21日 1,150t 35kt

 浅間は開戦時候補練習艦として青森湾にあったが、8月11日に横須賀へ急遽帰港、14日には呉に移動し練習艦任務を解かれ乗員・装備の補充を行った。26日には軍令部より「特別任務」「遠距離航海」の準備を命ぜられ、9月3日南遣支隊へ編入の命令を受け横須賀へ回航、7日に横須賀へ到着した。

 第十六駆逐隊は第一水雷戦隊(旗艦音羽)隷下に8月24日、陸軍部隊輸送に先立ち済州島西方海上の掃海の為佐世保より出撃したが台風に遭遇、第十六駆逐隊は装備の一部と乗員二名を失い翌日帰港した。28日には陸軍部隊輸送*12に伴う哨戒任務に就き、30日対馬・竹敷に入港。31日からは竹敷を拠点に陣形運動訓練を繰り返したが、3日南遣支隊編入の命令を受け、佐世保で載炭の後6日横須賀に入港した。

 9月14日、将旗は金剛から鞍馬へ移され、南遣支隊は正式に編成された。同日付の命令*13によれば支隊の目的は「南洋群島ヲ根拠トシ通商破壊ヲ試ミントスル独逸艦隊ニ對シ南方海面ニ於テ策動」することにあり、「マーシャル群島、東西カロリン群島、マリアナ群島方面」の巡航索敵するものとされた。支隊の編成は以下のとおり。

  • 鞍馬(旗艦) 筑波 浅間
  • 第十六駆逐隊 山風(旗艦) 海風
  • 附属給炭船 南海丸 遠江

行動中はやむを得ない場合を除き無線電信の使用が禁じられ、敵と遭遇した場合にはこれを撃滅すべきとされた。戦策を定めた同日の別の命令*14には敵の装巡二隻(シャルンホルスト,グナイゼナウ)の撃破を最重点とし、ニュルンベルクは特に障害とならぬ限り「敢テ之ニ関セサルヲ可トス」とされている。ここで南遣支隊が撃滅しようとした独東洋艦隊の主力を挙げておく。

類別 艦名 就役年月 常備排水量 最大速力
装甲巡洋艦 シャルンホルスト SMS Scharnhorst 1907年10月24日 12,781t 22.7kt
装甲巡洋艦 グナイゼナウ SMS Gneisenau 1908年3月6日 12,781t 22.5kt
軽巡洋艦 ニュルンベルク SMS Nurnberg 1908年4月10日 3,390t 24.1kt

 この時期の独東洋艦隊の動きにも触れておこう。独東洋艦隊司令官マクシミリアン・フォン・シュペー中将に率いられたシャルンホルストグナイゼナウは8月4日の独英開戦時カロリン諸島・ポナペ島にあった。ニュルンベルクはメキシコ沖にあったが情勢不安定を見て8月6日ポナペ島で両艦と合流した。三隻は11日にはパガン島へ到着、そこで12日、軽巡エムデンと合流した。エムデンは2日の対露開戦と同時に青島を出港、露商船リャザン(Рязань)を臨検後、6日には青島を離れ南洋群島へ向かっていた。14日に全艦出港、15日にエムデンは別れ、インド洋での一連の有名な通商破壊作戦に従事することになる。19日、艦隊はエニウェトク環礁で補給した。22日、ニュルンベルクは本国との通信のためハワイへ向かい、これが日本領事館に発見されることになる。9月6日、艦隊はクリスマス諸島で会合、7日にファニング島の通信施設を破壊、サモアを経由し22日にタヒチ島を艦砲射撃、仏砲艦等を撃沈した*15

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図2:ドイツ東洋艦隊行動概略図

2-2.南遣支隊の行動

 南遣支隊に話を戻す。支隊は9月14日、給炭船を先行させ二見港へ向け出港した。しかし波濤激しい為遠江丸、第十六駆逐隊は館山へ避難、南海丸は横須賀に引き返した。翌日には給炭船、十六駆共に出港、17日中に全艦が二見港へ到着した。同日、支隊はトラックへ向け出港した。19日、軍令部より先ずヤルート島へ向かい敵情判断せよとの命令を受電、マーシャル諸島ブラウン島を経てヤルート島へ向かうべく変針した。これは16日にハワイ領事からヤルート島に独軍が石炭を貯蔵しているとの情報を得たことによるものと思われる。20日からは緊急時の外は無線を禁じた。20日夜以降、浅間が独艦の暗号電文らしきものを受信していたためだろうか。

 22日、英国からの増派要請を受ける形で第二南遣支隊(薩摩, 矢矧,平戸)が編成され新たに南洋群島へ派遣された(後に詳述)。24日に南遣支隊は22日付の訓令を受電、第一南遣支隊と改称された。同訓令では第一南遣支隊は会敵しない場合東カロリン・マーシャル諸島に留まり当面索敵すべしとされ、当初の「20日間」という行動予定が変更された。これに伴い給炭船三隻が追加されている。またオーストラリア艦隊との協同が指示された。

 26日、ブラウン島の南側に達する。この日山屋司令官よりヤルート島での行動計画が命令された*16。支隊は29日早朝を以てヤルート島に出現せんとするが、16駆逐隊は28日正午より先発急行し夜半ヤルート島へ到達、周辺を警戒し若し敵艦を発見せばこれを撃沈する。主隊は28日夜半より増速、29日早朝にヤルート島へ到達、合流の後湾口に敵艦を目視すればこれを砲撃、撃滅する。若し敵艦が存在しなければ、別途編成する連合陸戦隊を揚陸するとされた。

 同時に浅間副長南郷次郎中佐を指揮官とする連合陸戦隊の編成が命令された*17。これはヤルート島の上陸偵察を目的としたもので、鞍馬・筑波・浅間の乗組員から抽出された。目的は軍事的設備の破壊であり、行動の上の注意として、敵対した敵兵・島民はこれを撃退、独人は俘虜とするが島民・土民兵(原文ママ)は武装解除の上解放すべきとした。また情勢によっては駆逐艦を通信保持の為利用する外、陸戦隊の援護に用いるとされた。同命令の最後には、この行動は敵領土を永久的占領する目的に行うわけではないとし、陸戦隊の速やかな帰還を命じている。

 29日午前7時、本隊はヤルート島*18に到着。午前9時に連合陸戦隊を揚陸、特に抵抗を受けること無く政庁を「一時的占領」し、島庁の独国旗を下ろし艦旗を掲げ、島司に独艦隊出現まで我が権内に置くと宣言、夕刻までには帰艦した。ヤルート島からは拘禁されていた邦人塚村兼吉が保護された。塚村は岡山県人で、神戸の独ニッケル商会に雇われ石炭や食糧を満載した青島行き汽船マーク号に乗り込んだところ同船は南方のある島へ向かい、シュペー艦隊への補給を行ったという。そして塚村はヤルート島まで連れて来られ、そのまま監禁されたのだ、と話した*19

 支隊は30日までヤルート島近海を哨戒した。30日付日令*20には、塚村兼吉および抑留されていた汽船「インジュナ」船長、さらに島民の話を総合するとシャルンホルストグナイゼナウ及び仮装巡洋艦二隻がマジュロ島にあり、ミル島には独軍が石炭を揚陸している模様だ、とある。支隊は30日夜、マジュロ島、次いでミル島へ向け出発した。

3.南洋群島占領作戦―大正三年十月 第一・第二南遣支隊の行動

3-1.第二南遣支隊の編成

 1914年9月に入るとドイツの太平洋・インド洋における通商破壊作戦はその活発度を増した。先に述べたシュペー艦隊のファニング・タヒチ襲撃の外に、後にシュペー艦隊と合流する軽巡ライプツィヒによる南米沿岸での商船撃沈、インド洋で単艦十数隻*21の商船を拿捕あるいは撃沈しマドラスを襲撃した軽巡エムデン、東アフリカの河口に潜む軽巡ケーニヒスベルクなど、神出鬼没(に思われる)ドイツ艦の動きに英軍は頭を悩ませていた。現存艦隊主義を取る独海軍を完全に牽制するためには、艦船が不足していたのである。9月17日、駐英海軍武官へ英国軍令部から直接、南遣支隊と協同し東洋艦隊を撃滅するため巡洋艦隊の派遣が依頼された。19日には支那隊司令官ジェラム中将から政府を通さず海軍ルートで艦隊増派が要請され、日本海軍は南遣艦隊の増派を決定した。

 9月22日、松村達雄少将を司令官とし第二南遣支隊が新編された。第二南遣支隊に編成された艦は以下のとおり。

類別 艦名 就役年月 常備排水量 最大速力
戦艦 薩摩(旗艦) 1910年3月25日 19,372t 18.25kt
防護巡洋艦 矢矧 1912年7月27日 5,000t 26.0kt
防護巡洋艦 平戸 1912年6月17日 5,000t 26.0kt

 薩摩は第一艦隊に属し開戦時は佐世保にあり、8月28日から9月4日と9月12日から9月18日の二回陸軍部隊輸送の護衛の為出動している。21日から射撃訓練のため鎮海へ向かっていたが22日第二南遣支隊編入命令を受け23日佐世保へ戻った。

 矢矧は開戦後24日から第五戦隊(矢矧, 平戸, 新高,笠置)旗艦として佐世保から哨戒に出動、途中遭難した第一水雷戦隊の捜索に従事し27日帰港、間に下関附近の哨戒をはさみ28日から9月2日と9月12日から19日までの二回陸軍部隊輸送を護衛、21日から哨戒に出発したが23日帰港した。連続任務のため、27日から10月1日まで佐世保に入渠した。

 平戸は8月27日まで佐世保にて入渠し装備を更新、28日からは矢矧と共に陸軍部隊護衛に出動するが、9月3日に発生した罐の火災が原因で12日から21日まで入渠した。

 第二南遣支隊編成の命令内容はおおよそ以下のとおり。佐世保を起点としパラオ附近を経由してラバウル方面に進出し可能ならば当地の英国豪州艦隊司令官より最近の情報を得て行動を決定する。もし敵情不明であれば西カロリン諸島方面に帰航し便宜根拠を定めて索敵を継続、時々矢矧、平戸をモルッカ海およびバンダ海方面へ遊弋させ豪州航路の保安を図る。第二南遣支隊には運送船として天拝山丸、幸壽丸、鎌倉丸を附属する。また、第二南遣支隊の区分は以下のとおり。

  • 第一小隊 薩摩
  • 第二小隊 平戸 矢矧
  • 列外 鎌倉丸 天拝山丸 幸壽丸

 また戦策として、薩摩は敵主力の撃破を優先し、第二小隊はこれを援護、夜戦は避けるべきことが命令された。

 9月25日に旗艦は薩摩となった。また第二支隊は英国支那艦隊と協同すべきことが示された。9月30日、入渠中の矢矧を除く各艦と幸壽丸は10月1日に佐世保を発ちパラオへ向かい、矢矧は2日出港しパラオで合流。鎌倉丸、天拝山丸はそれぞれ10月6日、11ないしは12日にパラオへ到着するよう命令がなされた。10月1日に薩摩、平戸は予定通り佐世保を出港、2日には矢矧も後を追った。

3-2.占領の決定

 日本と同様に南洋群島の占領を行っていたオーストラリア・ニュージーランドの状況について触れておこう。オーストラリア・ニュージーランドはイギリスと同時に対独戦争状態に入り、後のANZAC軍となる欧州向けの遣外軍*22が組織されたが、しかし両国にとっても南洋群島の東洋艦隊は脅威であった。以前からの強い領有意欲もあり、ニューギニア・ニューブリテンサモアの占領及びヤップ島の独通信設備破壊を目的とした2000人規模のオーストラリア陸海軍遠征部隊*23が組織された。8月11日に巡洋戦艦オーストラリアがニューブリテンラバウル港を偵察するが発見には至らなかった。11日にイギリスがヤップ島を砲撃したためヤップ島は後回しとなったが、これが後に大きな問題となる。

 8月15日、ニュージーランド遣外軍は豪海軍のオーストラリア、軽巡メルボルン、仏巡モンカルムの護衛のもと出発、29日にサモアへ上陸、抵抗らしい抵抗もなくサモアは占領された。9月9日にはオーストラリアに軽巡シドニー、エンカウンター、他三隻の駆逐艦と潜水艦AE-1ラバウルへAN&MEFを輸送、11日に上陸したがドイツ人は現地民兵と共に抵抗、AN&MEFの低練度も相まって17日に占領を完了した。またメルボルンは9日にナウルの独通信所を破壊した。

 日本はこのようなオーストラリア・ニュージーランドの動きに警戒感を持っていた。10月1日、オーストラリア艦隊がラバウルから南洋群島を目指しているとの情報が入ったことで海軍は占領の決断に至った。2日の閣議では一時占領とするか永久占領とするかが議論となり「時局の推移」を見極めつつ一時占領することが決定された。問題となる東洋艦隊だが、1日の時点でシャルンホルストグナイゼナウが22日にタヒチを襲撃したことが発電されており、主力が南洋群島に存在しないことはほぼ明らかであった。3日、軍令部は両南遣支隊および通信中継中の香取に南洋群島の要地を占領すべしとの命令*24を発した。海軍はこの占領を内密に行う予定であったが、3日のヤルート島占領が地方紙に報道されてしまったため、ヤルート島のみを公表することとし、7日に支隊に対し敵国官憲などは機密保持のため後送を控えよとの命令を出した。

3-3.第一南遣支隊による占領

 第一南遣支隊は10月1日、マジュロ島に達するが情報に相違して敵艦船は存在しなかった。筑波・浅間はミル島へ進むが貯炭場も存在せず、支隊はヤルート島へ引き返した。2日にヤルートで敵石炭を押収、給炭の後支隊はクサイ島へ向かった。

 3日未明、前述の占領命令受領のためヤルート島へ急航(浅間は給炭船護衛)、午後1時40分、鞍馬・筑波陸戦隊(鞍馬砲術長宮坂少佐指揮)を揚陸し2時50分同島を占領した*25。このときヤルート島庁には日章旗が掲げられた。午後5時、ヤルート島守備隊長・鞍馬分隊長日比野大尉に守備任務が引き継がれ、夜に支隊はクサイ島へ進発した。塚村兼吉は遠江丸に便乗し本土へ旗艦の途についた。

 5日、未明に駆逐隊が先行しクサイ島を偵察。筑波は給炭船の護衛で遅れたため午前8時20分鞍馬・浅間連合陸戦隊(浅間副長南郷次郎指揮)揚陸、10時30分占領を完了。クサイ島守備隊長に守備任務が引き継がれ午後7時15分支隊はポナペ島へ向かった。

 陸戦隊の報告*26によればクサイ島にはドイツ人官吏はおらず、宣教師一名を含む米国人三名がいるのみであった。同じ報告に一つ面白い話があるので次いでに記しておこう。陸戦隊はクサイ島司を尋問したが、この人物は同地の酋長で「シグラ」という王号を有していたが、奇妙なことに彼は日本人の後裔なのだと主張した。島には、かつて日本人がやってきて土民(原文表記)を征服しポナペへ去ったという口碑も存在していた。島司はそれを理由に日本の占領に諸手を挙げて賛成し土民も上下を挙げて歓迎の意を示したという。全く真偽不明だが、実に興味深い話である。

 7日、鞍馬・浅間は筑波到着を待ち、午前11時連合陸戦隊(筑波副長松岡静雄中佐指揮)を揚陸。陸戦隊は途中帆船「デルフヒン」を拿捕したのち16:30にポナペ島を占領完了。8日にポナペ島で給炭を行い、午後11時、支隊はトラックへ向け出発した。

 ポナペの島司は占領時帰国中であり、島司代理は日本艦を見るや逃走したため占領には多少手間取ったようである。占領後も、島司次席の病院長は行政の知識がなく書記は軍政への参加を拒んだため、守備隊長の力では軍政監理は困難と思われた。よって松岡中佐が残留し、ポナペに在留していた関根某の補佐のもと当面の軍政監理を担うこととなった*27。  9日からは平時を東経150度に変更。

 11日、トラック北東水道附近に漂泊、水雷艇を用い島内の偵察を行う。駆逐隊は前日から先行し偵察を行っていたが山風が島南側で100t級のスクーナーを拿捕、武装解除し解放した。また主隊はエデン錨地にて独測量艦「パイレンポート」を捕獲、俘虜三名を得た。翌12日、午前7時50分連合陸戦隊(鞍馬副長福地中佐指揮)が出発、10時30分島庁所在地に上陸し10時40分に占領が布告された。トラックに居たドイツ人は島司のほか官吏二人、ヤルート会社社員三名、宣教師九名であり、日本人は十二名いたがいずれも日独開戦を知らなかったという。トラック守備隊長は鞍馬分隊長小檜山大尉となった。支隊はこの後10月18日までトラックに在泊した。17日には入港してきた帆船ウーブエンを抑留している。

 14日には通信中継の香取がサイパンへ陸戦隊を上陸させ、何ら抵抗なく同島を占領した。

 19日、新たな給炭船彼南丸が到着、給炭後の午後4時、浅間は視察のためモルトロックへ向かい、残る支隊はポナペへ向かった。南海丸は俘虜三名を乗せ横須賀へ帰還の途についた。20日、浅間はモルトロックを視察、占領を布告し、21日ポナペで松岡中佐を回収した支隊と合流した。

 22日、支隊はクサイに向け出港し23日到着するが波が高く載炭が出来ないためヤルートへ移動することとし、25日ヤルート島へ到着した。この日浅間は命令により支隊を離れハワイに向け進発した。浅間はこの後肥前と合流、北米西海岸の警備にあたることになる。

 支隊は26日までヤルートに滞在し、その後各艦に別れマーシャル諸島各島の占領を行った。その内容について後表にまとめる。。

日付 島名
10月27日 アイラック島 海風
10月28日 リューエン島 筑波
10月29日 マジュロ 鞍馬
10月30日 ウォートゼ島 鞍馬
10月30日 リキェブ島 山風
10月30日 ロングリッツ島 筑波
11月1日 ブラウン島 支隊
11月1日 エニウェトク島 山風

 支隊は11月1日にブラウン島で会合した。ブラウン島では各島守備隊と交代する第二~第四特別陸戦隊を乗せた神奈川丸と合流、11月7日にトラック、11日にポナペ、13日にヤルートの守備隊が陸戦隊と交代を終えた。

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図3:マーシャル諸島要図

3-4.第二南遣支隊による占領

 10月1日正午、矢矧を除く第二南遣支隊は佐世保を出港した。途中から薩摩のみ増速先行しパラオを目指した。2日には矢矧も予定通り後を追った。5日、占領決定の訓令を受けた命令にもとづき薩摩はヤップ島へ向かい無線電信所を占領、矢矧は増速しヤップを経てアンガウルへ、平戸は幸壽丸と共にアンガウルに向かうこととなった。しかし6日、ボルネオ島サンダカンにおいて日進が座礁したという知らせが届き、平戸はその救助のためサンダカンへ向かった。波濤のため洋上載炭が出来ず、燃料不足の危険を冒しての変針だった。しかし日進の離礁が成功したため、翌日平戸への命令は取り消され平戸は改めてアンガウルへ向かった。

 10月7日、薩摩はヤップ島に到着し、9時20分陸戦隊(梅津少佐指揮)を揚陸。11時には政庁に軍艦旗を掲げ、午後0時40分、無線電信所を占領した。午後4時、守備隊が独測量艦「プラネット」が自沈しつつあるのを発見した。午後5時、矢矧はヤップ島に到着し薩摩から参謀濱野少佐以下二名および顧問水谷新六*28が乗艦、そのままパラオへ出港した。

 ヤップ島の占領とその後の処理について13日付けの報告書から若干抜粋要約しておく。揚陸に先立っては汽艇を出し偵察させたが、敵影はなくただちに上陸、島庁と無線電信所を占領した。海岸には若干の堡塁と土人兵が存在したが、特に抵抗はなく降伏したという。同島の占領は英海軍から、破壊されたはずのヤップ島から無線発信の疑いありとの連絡を受けたことも理由としていたが、無線電信所にはプラネットから移設された小型無電が存在していた。この無電により数日前から独人は軍艦の接近を察知し重要物品の隠匿とプラネット自沈を準備していた、と報告書には記されている。無線電信所はただちに爆薬により爆破された。独人の大半は艦影を見るや山中に退避しており、陸戦隊は島庁に残留したものの内最年長のマイなる独人を代表として宣誓させ、占領を布告した。病院に入院していた日本人尾崎弥太郎の言により日本人が幽閉されていることが判明、夜9時に南洋貿易会社支店長代理柴田定次郎以下七名を救出した。翌日には退避した独人も次々出頭し、尋問により島内の隠匿物品は次々回収されていった。また土人達が陸続とドイツ皇帝の油絵やドイツ国旗を返納しに来たという。ヤップ島にはポナペ島から流罪となった者3名、ドイツ人に使役されたニューギニア人、パラオから移送された者数名がおり、パラオ人に関してはのちに運送船により帰島が実現した。

 10月8日、矢矧はパラオへ到着、午後1時40分陸戦隊(瀬崎大尉指揮)が上陸、午後4時45分、全島を占領、佐久間中尉指揮の守備隊へ引き継がれた。パラオのドイツ人は10名ほどで、他に土人兵が数十名程度居たが全て武装解除された。また抑留されていた日本帆船ガム丸を開放した。

 10月9日、矢矧はアンガウルへ達し8時に陸戦隊(土田大尉指揮)が上陸、8時30分パラオ燐鉱会社に到達し占領が布告された。アンガウル島は既に英国により占領されている可能性があったが特に証拠はなく日本の占領下となった。アンガウルの無線電信所は9月26日に豪艦シドニーにより破壊されていた。アンガウルには島司が存在せず、燐鉱会社社長が島政の万事を取り仕切っていたという。午後5時30分、平戸がアンガウルへ到着した。

 10月10日、幸壽丸がアンガウルへ到着、載炭が行われた。この日、独軽巡エムデンがマカッサル海峡を北上中との情報が入り、平戸をモルッカ海峡・バンダ海方面の警戒に派出することが決定された。平戸は翌日6時に出発した。入れ替わるように12日、運送船鎌倉丸がヤップへ到着した。

 14日、ANZAC軍の輸送護衛のため矢矧をシンガポールへ急派せよとの命令を受領、15,16日にかけ薩摩は新たに陸戦隊を編成し矢矧のアンガウル守備隊全部とパラオ守備隊半数と交代させ、16日矢矧はシンガポールへ出港した。爾後薩摩はパラオを拠点とした。

 18~20日には鎌倉丸がパラオ・ヤップ間で独人に移送された土人の輸送にあたった。

 18日、平戸はパラオへ帰還しつつあったが、エムデンがベンガル湾に現れたとの命令によりセレベス海へ進出警戒を命ぜられた。しかし23日にはエムデンがミニコイ島(アラビア海)にありとの情報を受け、25日平戸はパラオへ帰港した。

 20日に南洋群島の作戦要地占領が公表されたことから23日、独人のうち退去を求めるものは日本へ送致せよと海軍大臣から命令がなされ、薩摩は一時ヤップへ移動し手続きを行った。退去外国人は11月2日にヤップ・パラオ・アンガウルまとめて鎌倉丸により長崎へ送られた。

 21日には運送船天拝山丸がパラオへ到着、26日には運送船武洋丸および巡洋戦艦生駒の第二南遣支隊編入が通知された。武洋丸は29日にパラオへ到着したが、生駒は香港-シンガポール間の商船保護任務に従事し12月まで本隊と合流することはなかった。

 28日、敵の運送船がティモール島附近にありとの疑いあるため平戸及び天拝山丸(21日パラオ着)のティモール島派出命令が出され30日から11月17日まで平戸・天拝山丸はティモール島附近へ進出した。11月8日には薩摩にもセレベス海哨戒の命令が出されたが、英国艦隊の配備変更により11日に平戸共々帰港命令が出された。

 11月6日、第六特別陸戦隊を乗せた鹿児島丸がパラオへ到着、11月7日にパラオ、8日にアンガウル、18日にヤップの各守備隊が特別陸戦隊と交代した。

4.占領の確定―英豪との摩擦

 かくて南洋群島は日本の占領下に置かれたが、南洋群島が日本の信託統治下に置かれるまでには様々な紆余曲折が存在した。

 『第一次世界大戦日本海軍』によれば、南洋群島の占領が成功してしまった背景には、英豪の錯誤があった。英海軍は日露戦争後、ドイツの建艦に対抗すべく本土正面の海軍兵力の増強を図ったが、その過程で中国艦隊の新鋭艦のほとんどが引きぬかれてしまっていた。これが災いし日本海軍に東洋艦隊の捕捉を依存しなければならなかったことは前に述べた通りである。さらにジェラム中将は東洋艦隊がインド洋方面へ向かうと考え、艦隊を香港~シンガポール間の警備に集中させてしまっていた。この錯誤にはエムデンの活躍も一役買っているだろう。加えて、英海軍の性格として敵の艦隊を捕捉撃滅することに主眼が置かれ、島嶼の占領を軽視する傾向があったが、これもひとつの原因となっている。先に述べたようにヤップ島やアンガウル島は英豪の海軍により通信所が艦砲射撃で破壊されているが、占領はなされなかった。仮にこれらの島々が占領されていれば、日本が敢えて南洋群島に進出を図ったとは考えにくい。ただし、占領する陸兵への補給という面で英国は不利であり、豪はより近いニューギニア・ニューブリテンの占領を優先せざるを得ないという点でこれには仕方のない面もあるだろう。さらに、日本海軍は他国海軍の指揮下に入ることを統帥権の観点から嫌ったため、10月7日に英豪と南洋群島の戦域を分担することを提案、ジェラム中将は了承した。その協定内容は、

  • 第一南遣支隊 赤道以北 東経140度以東
  • 第二南遣支隊 南緯20度以北 東経140度以西
  • 英国豪州艦隊 赤道以南 東経*29140度以西

というものであった(図1も参照)。しかしこの協定が赤道以北の南洋群島への英豪進出を妨げ、日本の占領維持を容易としてしまったのである。

 南洋群島全体はともかく、ヤップ島についてはオーストラリア側の大きな失敗があった。ヤップ島は英国が既に砲撃していたこともあり、元々日本の中央には領有の意思はなかった。加藤外相は0月10日に駐日大使に、ヤップ島が戦略的要地であり日英いずれかの兵力が置かれなくてはならないという見解を示し、日本にはいつでも引き渡しの用意があると述べた。これを受け英グレイ外相はオーストラリア側に日本からの引き継ぎを要請した。11月14日、オーストラリアから日本へヤップ島占領のための部隊が11月25日に出港するとの通達があり、11月23日、トラックへ向かっていた第二南遣支隊は引き継ぎ事務のため平戸をヤップに戻している。しかし19日、白豪主義で知られていた豪国防省ピアスが文章の読み違いから、ヤップどころか日本占領下の島々がオーストラリアに引き渡されるという声明を発表してしまたことで全てが台無しになってしまった。これが日本に伝わると加藤外相は強く抗議の意を示した。ここで動いたのが英海軍だった。英海軍は11月1日のコロネル沖海戦で独東洋艦隊に敗れており、日本海軍の協力を失うことは何としても避けなければならなかった。チャーチル海相およびグレイ外相の仲介によりオーストラリア側はヤップ占領を断念、加藤外相はこのような事態は日本にとって“embarrassing”であり領有問題は戦後の講和会議に委ねたいと述べた。かくして日本は南洋群島の占領を既成事実化することに成功した。12月28日、南遣支隊は解散となり、臨時南洋群島防備隊が設置され本格的な軍政に移行した。問題は戦後、アングロサクソン諸国を説得する材料をどれだけ揃えられるかであった。

 開戦劈頭、エムデンの暗躍するインド洋でANZAC軍の護衛を請け負ったのは巡戦伊吹であり、フォークランド海戦後には第一南遣支隊がオーストラリア近海の警備にあたった。欧州で海上護衛に活躍した第二特務艦隊は有名であるが、第一、第三特務艦隊の任務はオーストラリア近海からインド洋にかけての海上護衛であった。英海軍の余裕の無さ故に、東半球での護衛任務はほぼ全て日本海軍の一手に担われたといってよい。後方であるが故に損害は少ないが、日本海軍の存在は独仮装巡洋艦による通商破壊をほとんど無効化した、とティルピッツは述べたという。またシンガポールでのインド兵反乱の鎮圧における海軍陸戦隊の活躍を評価する声もあった。

 しかしオーストラリアの反応は日本の思ったとおりのものではなかった。先の国防省の声明が国民に広く信じられてしまったため、日本は背信国家であるという非難が巻き起こっていた。1917年11月には第三特務艦隊所属となっていた矢矧がフリーマントルに入港する際、砲台から砲撃を受けるという事件も起きている。さらに南洋群島が日本の手に落ちたことで白豪主義者は日本のオーストラリア侵攻に強い危機感を持った。パリ講和会議においての特に人種差別撤廃条項での対日強硬姿勢はここに端を発すると言って良い。イギリスについては、特に第二特務艦隊の活動について評価する声が高く、海軍内には一定の敬意を持つものもいたようだ。しかし日本の東洋における勢力拡大は、英国の東洋植民地が日本に奪われるのではないかとの猜疑を生んだ。さらに日本の、貢献に対して代償を求めてゆく姿勢が貪欲であるとも捉えられ、グレイ外相は日本への不信を吐露している。

 日本も南洋群島の植民地化の既成事実化を進めていた。民間資本を利用しての経営確立を検討する機密文書が残っているといい、また秋山真之軍務局長と三井物産は共謀して南洋経営組合を設立しいち早く1914年10月24日に第十一乾坤丸を借りきり11月6日アンガウル島へ到着、燐鉱事業の移譲をドイツの燐鉱会社に迫っている。一時決裂したものの、第二南遣支隊に泣きつく形でドイツ人の退島後燐鉱会社の設備を引き継いだ*30。このような事態を想定してか、10月16日には第二南遣支隊宛に軍令部から「内地ヨリ投機社等ノ密航」する者があれば適宜取り締まるよう訓令が出されている。その後翌4月末までに20件以上の出願がなされた。

 パリ講和会議での旧ドイツ領ニューギニアの処遇についての議論は、日本の努力が実った形でイギリスの支持を引き出し*31南洋群島は内地同様の排他的支配が認められるC式委任統治下に置かれることとなった。しかしオーストラリアやアメリカの不信から非軍事条項が盛り込まれ、日本の基地整備は大きな遅れを取ることになった。ヴェルサイユ条約では日英同盟は存続されたが、ワシントン会議では参戦の遅れから日本の勢力拡大を防げなかったアメリカの強い反対もあり日英同盟は破棄された。戦後のアジア主義勃興はイギリスの危機感増大を招き、イギリスはシンガポールやオーストラリアの基地を防備を拡充するなど日本への警戒を強めていった。アングロサクソン諸国の不信は日本側に英国への失望を生み、これが後のドイツ接近につながっていった。また、南洋群島という「実」は海軍の南進論者にとっての満州に等しかった。日本の軍事政策における南へのベクトルに、ひとつの実体が与えられたのである。

 太平洋における緩衝剤の一つであったドイツが退場したことで、日本とアメリカという二大シーパワーの衝突は不可避となった。この意味で、南洋群島の占領は第二次世界大戦への大きな伏線となったのである。

参考文献

書籍・論文

第一次世界大戦日本海軍』 平間洋一, 1998年 慶應義塾大学出版会

『エムデンの戦い』 R.K.Lochner / 難波清史訳, 1994年 朝日ソノラマ文庫

第一次世界大戦前のアジア・太平洋地域におけるドイツ海軍―東洋巡洋艦隊の平時の活動と役割」大井知範, 2009年, 『政經論叢』77巻3・4号 pp.347-379

アホウドリと「帝国」日本の拡大』平岡昭利, 2012年 明石書店

『日本帝国と委任統治』等松春夫, 2012年 名古屋大学出版会

ウェブサイト

“Vice-Admiral Graf Spee's Cruiser Squadron” World War 1 Naval Combat. 2014年4月20日閲覧. http://www.worldwar1.co.uk/GrafSpee.html

日本海軍人事手帳(?)」2014年4月20日閲覧。http://www.geocities.jp/boat_sparrowhawk/

英語版Wikipedia(en.wikipedia.org)の以下各項目(2014年4月閲覧)。

  • “Australian Navy and Military Expeditionary Force”
  • “Australian occupation of German New Guinea”,
  • “Occupation of German Samoa”
  • “Military History of Australia during World War 1”

また本文中の各艦諸元等は日本語版Wikipediaの各項目を参考にした。

史料

以下の史料は、アジア歴史資料センター(JACAR,www.jacar.go.jp/ )にて公開された防衛省防衛研究所所蔵の史料である。

  • Ref:C10080595100 「大正3年 第1南遣枝隊戦時日誌」※9月分までは表題「第三戦隊戦時日誌」
  • Ref:C10080132900 「大正3年 第3戦隊 日令 法令及機密綴 (10月1日以後第1南遣枝隊)」
  • Ref:C10080123700 「大正3年 第2南遣枝隊戦時日誌」
  • Ref:C10080128200 「大正3年 第2南遣枝隊機密綴」
  • Ref:C10080124500 「大正3年 第2南遣枝隊機密作戦日誌」
  • Ref:C10080156300 「軍艦出雲戦時日誌」
  • Ref:C10080176000 「大正3年8月 軍艦金剛 戦時日誌」
  • Ref:C10080176800 「浅間戦時日誌 其1」
  • Ref:C10080167700 「軍艦筑波 八雲 戦時日誌」
  • Ref:C10080151200 「大正3年8月 第16駆逐隊戦時日誌」
  • Ref:C10080045100 「大正3年 吾妻、薩摩、嵯峨戦時日誌」
  • Ref:C10080037200 「大正3年 宇治、矢矧、松江戦時日誌 青16」
  • Ref:C10080048100 「大正3年 見島 平戸 最上 音羽戦時日誌 青20」
  • Ref:C10128114400 「軍艦日進座礁1件(平戸鳥羽隅田)(2)」

f:id:tfukumachi:20160930231504p:plain:w750
図4:太平洋要図

f:id:tfukumachi:20160930231532p:plain:w450
図5:第一南遣艦隊の行動経路(戦時日誌の緯度・経度より作成。旗艦鞍馬の位置)

*1:平間洋一『第一次世界大戦日本海軍』p.20には日本商船が6日に臨検されたとあるがこの時期にエムデンが日本商船を臨検した事実はおそらく存在しない。5日には日本貨物船がエムデンを目視している。

*2:その当時東洋艦隊主力の装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウなどは南洋群島で通常の任務に就いており、エムデンは6日には青島を離れ通商破壊任務に就いている(後述)。また英支那艦隊は東洋艦隊の香港襲撃を警戒し7月30日に香港に全艦艇を集結させていた。

*3:ただしチャーチルは後にグレイの戦域制限を批判し、日本を支持している。

*4:出雲はメキシコ革命に伴う警備のためメキシコへ派遣中であった。

*5:出雲戦時日誌(JACAR Ref:C10080156300 ) 大正三年八月二十四日条

*6:第三戦隊機密第一號 (JACAR Ref:C10080133200)

*7:第三戦隊戦時日誌 (JACAR Ref:C10080595100) 大正三年九月二日条

*8:第一次世界大戦日本海軍』p.36

*9:第三戦隊戦時日誌 大正三年九月三日条

*10:第一艦隊司令官。

*11:第一艦隊機密二〇九號, 第三戦隊戦時日誌 九月五日条より

*12:この部隊が9月2日より青島攻略作戦に従事することとなる

*13:第三戦隊機密第九號 南遣支隊命令 (JACAR Ref:C10080133400)

*14:第三戦隊機密第十一號, 同上

*15:“Vice-Admiral Graf Spee's Cruiser Squadron” http://www.worldwar1.co.uk/GrafSpee.html

*16:三戦機密第二十三號。同命令では東洋艦隊のサモア出現が触れられている。

*17:三戦機密第二十四號

*18:第一次世界大戦日本海軍』では一貫して「ヤップ島」と記しているが「ヤルート島」の誤りである。

*19:第一南遣支隊告示第一號, 第一回報告(10/1付)

*20:第三戦隊日令第六號

*21:9月末まで。11月に撃破されるまでには三十数隻(内軍艦2)に達した。

*22:First Australian Imperial Force

*23:Australian Naval and Military Expeditionary Force, AN&MEF

*24:大海令30號

*25:第一南遣枝隊告示第一號, 第四回報告

*26:第一南遣支隊告示第三號

*27:第一南遣支隊告示第六號, 第八回報告

*28:小笠原諸島等で燐鉱採掘事業に携わる冒険的商人であった。

*29:原文では「西経」

*30:ただし、15年3月にドイツがアメリカを通じ不法であるとの抗議をしたため、7月に燐鉱事業は海軍直営となった

*31:これについては山東半島の返還声明も大きかった