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ふくらみ

膨張し続けている

ゴジラ2000ミレニアムは偉大である~小説版から読み解く2つの狂気~

特撮 考察 ゴジラ

 シン・ゴジラが海外で酷評されたという噂なので、なんとなく去年の冬コミ(C89)で発行された同人誌『東大特撮映像研究会部誌第零号』に寄稿した「ゴジラ2000ミレニアム」に関する評論文を転載します。書いたのはシン・ゴジラ公開前なので、当然シン・ゴジラの存在を踏まえた内容ではありませんのでご注意ください。
同同人誌は、「なぜ特撮が好きか、そしてどんな特撮が好きか」というテーマにもとづいて寄稿者が自由に書くというものでした。ブログのフォーマットに合わせほんの少し改稿してありますが、基本的にそのままです。誤字脱字等はご容赦下さい。

以下本文。

ゴジラ2000ミレニアムを視聴の上読まれることをおすすめします。

 ゴジラ2000ミレニアムは不幸な映画である。84年版ゴジラに次いでゴジラシリーズ再始動の重責を負い、駄作84ゴジラとは格違いの素晴らしい映画となりその重責を果たしたにもかかわらず、審美眼と読解力のない愚か者どものおかげで、嘆かわしいことに「駄作」のレッテルを貼られているのだ(筆者の妄想)。許しがたい暴挙である。このような暴挙を放置したまま第四の再始動作となるべき『シン・ゴジラ』の公開を迎えてよいものだろうか。いやよくない。断じてゴジラ2000ミレニアムは駄作ではない。いや名作だ。傑作なのだ。不世出の大名作だ。

 以下ではそんなゴジラ2000ミレニアムについて筆者がかねがね思っていることを書いてゆきたい。

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 ゴジラ2000ミレニアムが名作たる所以の一つが冒頭、根室への上陸シーンだろう。根室のシーンこそトライスター版への回答であり日本ゴジラのあるべき姿を示したものであると筆者は確信を持っている。

 何が良いのか。スタートは徹底的に「静」で貫かれている。霧の中でなにかの機器をいじる親子と、不満気な女性。そしてどうやら彼らがゴジラを追っていることを観客は知らされる。彼らが使うのは平成的な巨大スクリーン付きのハイテクマシンではない。無論昭和の謎機械でもない。かなり一般的、どこかの研究所で実際に動いていてもおかしくはない、そういった雰囲気を醸しだした、いわば生活感にあふれる機材たちである。モニタの脇についたメモや散らばったコードが説得力を持っている。そしてそれが貧乏長屋めいて車の中に押し込められているところに親しみが湧く。挿入される根室駅の待合室では、日常に埋もれた人々が突然の運転中止に困惑している。まさにそれは北海道の日常。それが篠田たちの存在を異常なものとし、そして静かに点滅する地震原の移動がより巨大な「異常」の予感を与える。場面はどこかの灯台に映る。そこでは定年間近の灯台守が退屈げに無線を聞いている。なにやら漁船が行方不明だという声が聞こえるが、それは今のところ想像力の範疇にある異常にすぎない。そこで突然の振動。そこが最早日常ではないことを否応なく知らせるドアノックである。異化されてしまった灯台の窓の外をに見えるのは漁船。そして、ゴジラの目。スクリーンを見つめていたはずの観客はゴジラに見つめ返される。眼差しの逆転構造、それは「異常」による「日常」への侵略にほかならない。

 灯台から逃げ出した灯台守を襲うのは、「落ちてくる」漁船と鉄塔*1だ。そして場面は転換し、漁師町の居酒屋になる。呑んだくれる客と愚痴を零す女将が地震に身を伏せると、扉の外に巨大な尻尾が映る。何かと思う暇もなく居酒屋はほんの一振りで破壊され*2、客と女将は去ってゆく巨大なものに泣き叫ぶことしかできない。ここまで、ゴジラは一度も全身を見せていない。ゴジラに襲われる哀れな人間たちには、あくまでその一部しか見えていない。彼らはそのごく一部だけによって崩壊した自らの日常に泣き叫び、そして巨大な何者か、語りえない大いなる力に畏怖するのである。

 この時点で事態は(物語の中の人々にとって)明らかではない。篠田は崖崩れに不安を持ちつつもトンネル(文学的意味における越境である)を抜け、そこでゴジラと対面する。このシーンではゴジラの鼻息すら描写され、そして篠田はゴジラと目を合わせる。由紀のフラッシュを転換点として「静」から「動」への転換が起こり、カーアクション*3を経てゴジラはトンネルのこちら側へ現れるのだ。

 場面は転換して政治家のパーティーになる。現実から乖離した「政治」を象徴するシーンだが、ここで片桐が登場する。片桐がエリートであることが示され、濃霧のための自衛隊出動困難という事態が語られる。宮坂が現実との橋渡しである点も面白い。

 場面は根室駅からの遠景となる。炎上する地面に照らされ、ここで初めてゴジラの全身が現れる。根室駅で逃げ惑う人々は、「異常」の予感が現実へと変わったことを実感し、観客は同じ視点でゴジラのシルエットを見つめることになる。ゴジラ根室市街地へ進撃し(ここで繁華街だけを襲っていることは注目したい)、そして変電所を襲う。篠田の口を通して語られるのは、今回のゴジラの行動原理が人類の創りだすエネルギーそのものへの「憎しみ」であるという事実だ。これこそがこの作品の根幹を成すテーマであるが、着目するべきは「憎しみ」という言葉である。すなわち、「愛」の対立概念である。この愛と憎しみが物語の推進剤となってゆくのだ。

 以上のように、根室のシーンでは日常の崩壊が極めて効果的に描かれている。なぜそれが効果的だったのかといえば、夜と霧という要素が有効に作用したことは明らかだろう。見えない巨大な畏怖すべき存在が少しずつ断片的に描写され、違和感を高めに高め、そして一気呵成に「動」へ転換してゴジラの存在を明らかにする。常套的な手法だが、そのあらゆるシーンが日常からの視点を貫いている点がなによりの特徴だろう。

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 さて、ゴジラ2000ミレニアムに対する批判の一つにこんなものがあった。「ゴジラを肯定している篠田を主人公にするのはおかしい。ゴジラを倒そうとするのが主人公のあるべき姿ではないか」この文章通りではないが、実際に2014年にテレビ東京で放送された際にTwitterで見た批判である。まず言いたいのは、この批判者はゴジラ2000ミレニアムのテーマを全く理解していないということである。そしてこの批判者は、狂人である(※意訳)の篠田が主人公で、片桐が悪役として対置されていることを批判していた。これもまた的外れで、主人公が狂人なのはむしろ当然だ。以下では、篠田と片桐という対立項を軸に、ゴジラ2000ミレニアムのテーマを考えたい。

 ゴジラ2000ミレニアムのテーマを考える上で参照すべきなのは、1999年11月(公開直前)に発行された小説版である。これは本編の脚本家である柏原寛司三村渉の二人の共著で、映画では語られない篠田の過去について詳しく触れられている点で貴重である。惜しむらくは、根室東海村を詳細に記している一方で、北浦以降は「エピローグ」にまとめられ、あらすじプラスアルファ程度の内容しかないことである。

 さて小説版で触れられている篠田の過去とはどのようなものだろうか。物語は1986年から始まる。篠田は当時将来を嘱望された有能なバイオ系の研究者*4だった。ある時、知人の海洋地質学者である樋口に誘われて琉球海溝で起きた地震震源地の潜水調査に参加した篠田だったが、潜水した樋口は「巨大な目が見える」という言葉を残し消息を絶ってしまう。荒天を冒して救助作業を行う母船だったが、突然海中から浮上した巨大な何かによって転覆、篠田一人だけが生存者となった。篠田は嵐の中で目撃した巨大な生物の存在を追い、1954年に東京に出現したゴジラではないかという仮設をもとに元新聞記者で、ゴジラに関する著作のある萩原(54年版ゴジラに登場した人物)と接触する。萩原と話すうち、ゴジラが単なる巨大生物にとどまらず、存在自体が思想的なものにすらなっていることに驚嘆を受け、またゴジラに対し取り憑かれたような熱情を見せる萩原に共感する。そして萩原を経て山根博士*5ゴジラに関する遺稿をまとめた小冊子(『とくかえれかし』という表題)を国会図書館で発見して没入するように読み進める。ここで筆は山根博士の原稿の引用へとすすむ。篠田が読む山根博士の原稿は、大戸島でのゴジラの劇的な出会いから始まる。ゴジラとの出会いは熱のこもった文体で記され、山根博士は出会いを「興奮するような」と表現し、1億5000年*6もの間生き永らえ、水爆を食らってもなお生存するその生命力への驚嘆を隠さず、そして「魔獣に魅了された」と結ぶのである。篠田はゴジラの前では一人の少年に戻ってしまう博士に共感し、読み進める。山根博士はゴジラが東京を襲った夜の惨状を事細かに記し、ゴジラに魅了されていた自分を恥じた。自分は科学者という人種がはらむ危うい狂気に操られた傀儡であると断罪するのである。そして鎮魂のために女学生が歌った歌の「とくかえれかし」(「帰って来い」)の言葉を引用して手記は終わる。ここまで読んだ篠田は、しかし山根博士の悔恨に疑問を抱いてしまう。博士が「帰って来い」と言ったのはゴジラではないのかと。篠田は萩原・山根博士という二人の、ゴジラに取り憑かれてしまった人物に触れることで、自らもまたゴジラに取り憑かれてしまったのではないだろうか。

 篠田は自分でもよくわからないまま大学の研究室を辞め、ゴジラの存在を信じない人々に冷笑されつつも自力でゴジラの存在を立証すべく、単身沖縄へ渡り玉城という男とソナーを使いゴジラの証拠を集めた。だが玉城は窃盗で捕まり、篠田の計画はおじゃんになる。だが篠田は、幸せを掴んだ。死んだ樋口の妹で天文学者の小夜子と結ばれたのだ。小夜子は学生時代からイカれた男としか付き合わないとして有名だった。もともと交流はあったのだが、沖縄での事件をきっかけに交際が始まったのだった。二人は88年に子供を設ける。それがイオであった。小夜子は自分のクローンの代替として子供を望んだのだった。イオは小夜子に生き写しに育ったという。篠田はどうやら実家の酒造を手伝いつつゴジラ探索を単身続けたようだ。大きな転機となるのが1995年だった。小夜子はシンポジウムに出かけた先の神戸で大震災に遭い死亡してしまう。篠田は彼女の死を受け止めきれずにいたが、ゴジラ出現の予兆(と篠田が考えるもの)の知らせに佐渡へ向かった。佐渡ではブリの大量死が起きており、放射能が検出された。さらに篠田は移動する震源、ソナーの巨大な影を確認し、興奮を隠すことができない。篠田はゴジラが柏崎を目指していると判断、停止を掛けあうが一笑に付されてしまう。そして篠田は原発ゴジラが襲う様を目撃する。原子炉が破壊され、放射線が撒き散らされる事態にも関わらず、間近でゴジラを目撃した篠田は悪魔的な光景を見て幸福感に満たされてしまうのである。*7

 死者8名を出したゴジラの柏崎襲撃により日本政府はCCIの設立を決定した。危機に際して自衛隊を含む様々な組織の指揮権を統括する機関*8で、そのトップとなったのが片桐だった。片桐はゴジラを利用して権力を得た。そして彼は日本的でなく洗練され、決断力のあるイメージを持った平島内閣の成立をコーディネートする。さらには内閣の失策を利用し、片桐に共感する若手議員らと共に新党を立ち上げ政権の簒奪すら計画するのである。一方の篠田はゴジラ予知ネットを立ち上げ、民間の、それも大学などの権威に属さない立場からゴジラを追求してゆく。

 そして物語は映画本編の部分へつながってゆくのだが、いくつかの差異点も存在する。まず根室のシーンであるが、篠田がゴジラへ向かう所でイオが「五年ぶりに恋人に会う」と篠田を評している。そして篠田はゴジラとの対面を「至福の時間」と表現している。また片桐はここで東京からヘリと自衛隊機を乗り継ぎ、海中へ戻ろうとするゴジラの姿を見にゆくのである。ゴジラを見た時、片桐は思わず危険なほど接近を命じてしまい、宮坂に制止される。そして去りつつあるゴジラと一瞬目を合わせるのだ。片桐はこの邂逅を経て、東海村でのゴジラ撃滅に執心することになる。

 東海村原発での戦闘においても差異が(あるいは映画で語られていないことが)ある。片桐はゴジラ東海村に向かっているとわかった時点で、予め秘密閣議で決定した自衛隊出動命令を用い、独断で自衛隊の出動を命じる。そしてゴジラを倒た暁に高まるであろう自らの政治的地位に心躍らせるのである。そして小説版ではなんと、自衛隊ゴジラを一時久慈川で行動不能にしてしまうのだ。

 ここでブラストボムとフルメタルミサイルについて触れておきたい。自衛隊による久慈川河口でのブラストボム・フルメタルミサイルによる攻撃で、ゴジラが痛がっていることが批判されることが多い。通常兵器で痛がるゴジラなどゴジラではないというのである。だがそれは明らかに間違いで、そもそもブラストボム・フルメタルミサイルは通常兵器ではないのだ。すなわち、スーパーXやANB弾と同じような超兵器の一つに数えられるべき兵器なのだ。それは小説版でゴジラを屈服させたことや、事務次官にも知らされていない国家機密として扱われていることからもわかる。映画でも、その扱いを注意深く見れば、他の兵器に比べて特別な扱いを受けていることは明らかである。そういった超兵器だからこそ、ブラストボムは円盤攻撃のために使用され、効果がなかった際に自衛隊幹部らが意外そうな顔をしているのだ。惜しむらくはその凄さが映像で表現しきれていないことで、もう少しサイズが大きければ説得力もあっただろう。

 さて本題に入ろう。篠田と片桐の両者の共通項はゴジラに魅入られた狂人であるということである。ただし、その方向性は逆である。篠田はゴジラという存在を受け入れ、その生命の神秘に対して科学を使って分け入ろうとする。一方で片桐はゴジラという存在を乗り越えなければならない障害と考え、倒すことに執着している。詳しくみていこう。篠田は樋口や小夜子の死に際してゴジラと遭遇し、そしてゴジラを見て幸福を覚えるまでにゴジラに未了される(あるいはその心理は身近な人の死に対する防衛機制なのかもしれない)。映画ではゴジラの保護だけが篠田の行動原理のように思えるが、その裏にあるのは論理を超え、倫理観すら超越したゴジラへの愛にも似た依存という狂気なのである。篠田にとってのゴジラは絶対的存在なのだ。一方で片桐は、ゴジラを自らの政治的野望の道具だと捉える。その地位はゴジラの出現によって得たもので、ゴジラを倒せばいずれ日本のトップにすら上り詰めると信じている。ゴジラ根室で見た時、理性を失うほどに魅了され、畏怖を覚えつつも抱いたのはいつかゴジラを倒してみせるという思いだった。片桐の心中にあるのは人類の文明=科学への信頼であり、科学で分析しきれない存在であるゴジラを倒すことで人類の文明は完成し、自らもより高い地位を得られるという確信なのだ。ゴジラは片桐にとって相対的存在でしかない。この両者の方向性の差は、山根博士がゴジラに対して抱いた2つの感情、あるいはゴジラに魅了された人間としてのゴジラへの愛に支えられた生物学者としての研究欲と、人間としてゴジラを許してはおけないという2つをそれぞれ押し広げたものではないだろうか。

 ではこの2つの狂気はどのように作品のテーマに関わってくるのだろうか。この作品の敵であるミレニアン/オルガは、量子流体と化して数億年宇宙をさまよい、白亜紀の地球に漂着して数千万年の間眠り続けていた。そして宮坂の潜水艇のライトで覚醒し、欲に駆られたCCIの引き上げによってその正体を現した。(この時点で、ミレニアンが人類の欲望の象徴でもあることがわかる)そしてミレニアンは地球人のインターネットに侵入して情報を収集し*9、またゴジラのオルガナイザーG1で失ってしまった肉体を取り戻そうとする。ミレニアンが何を象徴しているのかといえば、明らかに「科学の傲慢さ」である。それは端的に言えばゴジラを分析して科学に取り込み、超克しようという欲望だ。片桐も同じ地平にいる。ミレニアンにしても片桐にしても、科学と政治、方法は違うとしても反文明であるゴジラを文明の力で屈服させ自らの力にしようとしている。それは取りも直さず「ゴジラになろうとする」ことにほかならない。対する篠田は、ゴジラを分析するが、結局その全てを把握することは出来ず、ゴジラの巨大さに飲み込まれてゆく*10。篠田は文明の範疇にいながらも、反文明たるゴジラに取り憑かれ、その深淵に飲み込まれている。これこそが狂気であり、ミレニアン・片桐の持つ理性(ただし、ゴジラを取り込もうとしたために彼らもまた狂気に侵され、自己矛盾のため破滅する)と対置されているものなのだ。以上からわかる通り、この作品のテーマはそもそも、文明の使徒である科学の傲慢さの批判にある。これは、核と人間の業を対象にした54ゴジラ、それを受け継ぎ政治要素を絡めた84ゴジラの方向性を、より普遍的な方向に拡張したものと言えるだろう。(そのため、核に関する要素は薄まっているのは確かである。SP版パンフのインタビューで佐野史郎が批判している通りで、放射能に対する考慮も十分ではない)。文明=科学を批判するために必要なのは反文明であるゴジラであり、主人公はその使徒である狂人篠田でしかありえないのだ。ところでゴジラはシリーズで2回、人を殺したことがある。一回目はVSキングギドラで新堂会長を熱線で殺したこと、二回目が今回のラストで片桐を殺したことである。前者はゴジラザウルスとしての過去を滅却するための行為だったが、後者はゴジラによる文明の殺人だったと言えるだろう。

 以下は余談。さてゴジラを分析して超克してしまうものといえば何だろうと思うと、真っ先に思いつくのは何かというとあのトライスターの映画だろう。つまりそういうことだ。面白いのは、レジェンダリー版ではかなりの数、ゴジラ2000ミレニアムへのオマージュ描写があった*11。レジェンダリーで登場する芹沢博士もどうやら篠田と同じ穴の狢のようである。結局トライスターを超えようとすると同じ所に行き着くのだなあ、となかなかおもしろく思ったものである。

 個人的な思想ではあるが、ゴジラを分析可能なものにしてしまう発想はあまり好きではない。84で原子炉から放射能を摂取するシーンや、GMKでの残留思念の集合体という発想*12は、発想としては面白いが、結局それはゴジラを矮小な存在に貶めてしまうものではないだろうか。むしろゴジラには、巨大すぎるがゆえに分析不能な畏敬の対象――神であって欲しいのである。

 ゴジラ2000ミレニアムは名作だが、どうしても残念なところが2つある。1つは先にも挙げた、核に対する考慮の薄さである。2つ目は、結局文明=傲慢な科学の象徴を、ミレニアンという宇宙人にしか落とし込めなかった点だ。対決物のフォーマットにすることが先に決められていた以上*13、仕方のないことではあるが、それが人々が本作を軽く見てしまう原因にもなっているのではないだろうか。

 そういえばこの原稿のテーマとして編集からもらったのは「なぜ特撮が好きか、そしてどんな特撮が好きか」ということだった。どんな特撮が好きかというのは上に書いたので、なぜ特撮が好きなのかを書いておこう。端的に言ってそこに理由はない。好きだから好きなのだ。愛とは言葉で語られえぬものなのだ。それを言葉にしてしまっては、まさに傲慢というものになってしまうだろう。

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アフィではないのでご安心ください

*1:いずれも実物大のセットを落としている

*2:こちらも実物大セットが組まれ、ユンボで破壊された

*3:ミレニアムゴジラには歩行速度40km/hという設定があるが、恐らくこのシーンのための設定である

*4:99年時点で37歳なので24歳。院生か

*5:文中では1955年3月に病死したことになっている。ゴジラの逆襲との分岐を明確にするための措置だろうか

*6:200万年ではない

*7:ところで、これはゴジラ史上唯一の日本海側上陸である

*8:アメリカのNSCを意識したことは明白である

*9:パソコンの電源を切ったりLANケーブルを外しても止まらない描写があるが、偏光フィルターを掛けないと見えない触手には電源供給能力や通信能力があることが伺える。オルガナイザーG1を吸ったりケーブルを操ったりと、高機能な触手である

*10:これはオルガナイザーG1を分析する時の、だからゴジラの研究はやめられない、何が出てくるか想像も出来ない、という台詞からもわかる

*11:海から背びれだけが出る所はそうだし、ムートーの腕が地面に降りる所はオルガそっくりだ

*12:ゴジラ2000ミレニアム小説版にも、54年当時の保守政治家の感想として戦争の犠牲者の思念の集合という話が出てきている

*13:脚本家と富山プロデューサーの対談より